みなさん、こんにちは。キリスト教福音宣教会のChihiroです。
先日の説教で、「主の名前を呼ぶ」ことについての話がありましたが、面白かったのでまとめてみたいと思います。
the Lord(主)の語源
まずは語源を見てみたいと思います。
語源について、とても面白い記事があったので、ここではそれを紹介したいと思います(つまり、この内容は説教で出てきた話ではありません)。
英語では「主」のことを「the Lord」と呼びます。
元になる単語は「hlaford」、「hlafweard」という単語で、「領主、主人、夫」という意味があります。
この単語は二つに分けられ、前半の「hlaf」は「パン」、後半の「weard」は「守護者、番人」という意味です。
なので、元の単語の意味は「パンを守る者」という意味になります。
昔は、今と違って食べ物の確保はとても大事なことでした。
確保がうまくいかなければ、食べ物がなくなり餓死してしまいます。
そこで、人々は自分達の中でも一番信頼をおける人を「パンを守る者」に選んだそうです。
また、人々に信頼された「パンを守る人」は、他の重要な事柄も任され、人々を指導するようにもなり、そこから「貴族・王」が誕生したとか。
確かに、クリスチャンにとって一番信頼をおける人とはイエス様です。
また、聖書でパンは御言葉を表したりもしますが、御言葉を守り、人々の救いという重要な事柄を任され、人々を指導するのは、まさに「王の王、主の主、イエス様」だな、と思いました。
面白いですね。
参考:http://nnkd.jp/leaflet/files/275pande.pdf
「主人」としての「主」
ここからは、真面目に聖書の話を書きたいと思います。
上ではイエス様が「主」と呼ばれていますが、イエス様が登場する前の旧約時代にも「主」という言葉は出てきます。
旧約時代の主
「神様」としての主
まずは、「神様」を「主」と呼ぶ場合です。
旧約聖書では「神様」が人々にたくさん働きかけてくださいました。
ノアはすべて主が命じられたようにした。(創7:5)
聖句はあげればキリがないので一つだけにしますが、ここでの「主」は「神様」です。
ノアは、神様がノアに命じた通りに、箱舟を作りました。
「氏族の主人」としての主
次は明らかに神様ではないのに「主」と呼んでいる場面を書きたいと思います。
ヘテの人々はアブラハムに答えて言った。「わが主よ、お聞きなさい。お聞きなさい。あなたはわれわれのうちにおられて、神のような主君です。われわれの墓地の最も良い所にあなたの死人を葬りなさい。(以下省略)」(創23:5-6)
ヘテ(地名)の人たちがアブラハムを「わが主よ」と呼んでいます。
ヘテとはカナンの先住民の一つですが、この時代のヘテ人たちはアブラハムを迎え従っていました。
このように、アブラハムに従ってついて行く人たちは、アブラハムに「主」という呼称を使っていました(参考:創24:12)。
もう一つ見てみたいと思います。
若い時からモーセの従者であったヌンの子ヨシュアは答えて言った。「わが主、モーセよ、彼らをさし止めてください。」(民11:28)
こちらは時代が変わって、出エジプトの時代、モーセがイスラエル民族を導いている時代でした。
ここでは、「モーセ」を「主」と呼んでいます。
モーセは旧約時代を代表する人物であり、当時のイスラエル民族の代表です。
このように「時代の主人」、「民族の主体」となる人を「主」と呼んだりもしました。
「メシア」としての主
続いて、旧約時代に「メシア」を「主」と呼んでいるところを書きたいと思います。
旧約時代にはまだ「メシア」は出てこないのですが、「メシアが来る」という預言がされており、そこで「メシア」を「主」と呼んでいます。
これはエジプトの国で万軍の主に、しるしとなり、あかしとなる。彼らがしえたげる者のゆえに、主に叫び求めるとき、主は救う者をつかわして、彼らを守り助けられる。(イザヤ19:20)
イザヤ19章には、エジプトに救い主が来るとこうなるよ、ということが書かれています。
内容を簡単に書くと、「救い主が来ると、偶像信仰が中心のエジプトは、戦いや飢饉が起こって国が廃れていくけれど、その後、救い主を信じるようになる」と書かれています。
上の聖句の「これ」は「エジプト人が救い主を信じるようになって、町の中に、救い主に捧げる祭壇や柱ができるようになったこと」を指しており、そのことは、救い主にとってしるしとなり、あかしとなる、と書いているのです。
しかし、実際にはそのようにはならなかったですね。
現実を見ると、エジプトはイエス様を信じる国にはなっていません。
これは南ユダのヨシヤ王の話に繋がっていきますが、これ以上書くと長くなるので、また別の機会に書けたらと思います。
新約時代の主
「イエス様」としての主
次に新約時代について書いてみようと思います。
新約時代は、なんと言ってもイエス様の時代です。
新約聖書で「イエス様」を「主」と呼んでいる聖句はキリがないほどありますが、一つあげたいと思います。
「主よ、わたしの僕が中風でひどく苦しんで、家で寝ています。」(マタイ8:6)
話しかけている相手は「イエス様」です。
「イエス様」を「主」と呼んでいます。
続いて、使徒行伝。
使徒行伝はイエス様が死んでからの出来事ですが、使徒たちが「イエス様」を「主」と呼んでいます。
こうして、主の言はますます盛んにひろまって言った。(使12:24)
使徒たちが広げていたのは、言うまでもなく「イエス様の言葉」です。
私は数えていないですが(笑)、どうやら新約聖書には「イエス様」(70回程度)よりも「主」(100回以上)という呼称の方がずっと多く出てくるとか。
当時の人たちは、イエス様を自分の「主」と認め、たくさん主の名前を呼んでいたことがわかりますね。
参考:2023年1月22日 主日礼拝「主イエスの名を呼び、至りなさい」